シンガポールで働く

【まとめ】ビジネスに役立つシンガポールの歴史

ビジネスに役立つシンガポールの歴史

 

タツオ
シンガポールって歴史が浅い国なのに、豊かなイメージがあるね。どんな歴史なの?

 

シンガポールは1965年に建国されたので、2020年で建国55年をむかえたんだよ。短いけれど本当に激動の歴史だったんだ。その中でも、建国の父 故リー・クアンユー元首相の手腕は、僕たちビジネスマンが学ぶべき点が沢山あるので解説するね。
トニー

 

この記事の内容

シンガポールはどのような歴史を経てきたのか?

独立後どのようにして短期間で経済発展を遂げたのか?

建国の父 故リー・クアンユー氏はどのようにして国をコントロールしてきたのか?

 

独立までの流れ

自己紹介でもご説明しましたが、今私が住んでいるシンガポールの歴史について少しだけ書いてみたいと思います。

そもそも、シンガポールってどういう国でしょうか? 基本情報はこちらの記事にも書かれていますのでご覧ください。

1965年にマレーシアから独立した、東南アジアの小さな国です。大体東京23区くらいの広さに、約560万人が住んでいます。中華系が75%弱を占め、あとはマレー系、インド系など多人種、多宗教が共存しています。

 

一人当たりの名目GDPは2018年で64,041(米ドル)で、日本の39,306(米ドル)を上回っています。

 

こんなに小さく、歴史の浅いシンガポールがなぜここまで裕福になれたのでしょうか? それを知ることは、我々ビジネスマンにとっても何かのビジネスのヒントになるかもしれません。

 

まずは独立までの歴史を簡単に見ていきたいと思います。

 

近代史より前

  • 7世紀頃は「テマセック」と呼ばれる漁村として知られていた(この名前は今でも政府系の会社名などに使われています)。
  • その後いろいろとあったが(ここは適当っ)、14世紀末頃にはシンガプーラ(ライオンの街)という名前が定着し(だからシンボルはマーライオンなんです)、今の「シンガポール」の由来となった。
  • その後大航海時代の渦に巻き込まれて、ポルトガルやオランダに占領されるなど、さらにいろいろあったが、基本的に歴史上目立たない時代が続く。

 

トーマス・ラッフルズ上陸

1819年、イギリス東インド会社のトーマス・ラッフルズが、シンガプーラに上陸。そして、アジア周辺へのアクセスの良さから、この地に新たな港を作る事を決め、英国風の「シンガポール」という名前に変えた。イギリスの植民地となったあと、大変発展し、天然ゴムやすずの産業が栄え、中国(主に中国南部)、インド、インドネシアなどから多くの移民がマレー半島、シンガポールへ渡来し、現在の多民族国家の起源となった。

 

太平洋戦争

1941年に太平洋戦争が始まると、日本陸軍による攻撃を受けた1942年2月15日に無条件降伏。日本陸軍による軍政が敷かれ、シンガポールは「昭南島(しょうなんとう)」と改名された。シンガポール華僑粛清事件では大量の華僑が日本軍に虐殺された。

 

独立

日本の敗戦によりイギリス植民地支配が回復するも、アジアの各植民地で独立への機運が一気に高まる。1959年当時35歳であった建国の父リー・クアンユー氏が首相に就任し、その後またいろいろとあって(ここも適当っ)、1963に現在のマレーシアにシンガポールも含めた「マレーシア連邦」が誕生。シンガポールはマレーシア連邦を構成するひとつの州となる。

しかしその後、マレー系住民への優遇政策を求めるマレー系のデモ隊と、中国系住民が衝突し、シンガポール人種暴動 (1964年)が発生。中華系住民を中心に構成されるシンガポールは、1965年8月9日にマレーシア連邦から追放される形で都市国家として分離独立。

独立までの歴史はこんな感じです。この歴史の中で私が考える重要なポイントは、

  • 1819年にトーマス・ラッフルズが上陸し、シンガポールは発展するとともに、中国などから多くの労働者が来て、今のシンガポールの基礎ができたこと。実はラッフルズは、シンガポールの地域交易拠点としての可能性を見出し、イギリス東インド会社本部の意向に背いてまでシンガポールの領有を主張しました。その結果、シンガポールは彼の予想を上回る発展を果たしました。2019年はラッフルズ上陸200年で、多くのイベントがシンガポールで開催されました。
  • シンガポールは独立したかったわけではなく、仕方なしに追い出されたということ。資源も国内市場も何もないシンガポールが独立することは大きな苦難が予想されていました。建国の父リー・クアンユー首相が、独立を国民に伝えるテレビ演説で涙を流したのはそういった理由からでした。

 

リー・クアンユー氏の独立会見の様子、笑顔はありません

マレーシアからの追放

さて、こうして独立した小さな国シンガポールは、たった数十年でどうやって今のような豊かな国に発展していったのでしょうか? 

 

故リー・クアンユー元首相について

シンガポールの黎明期から独立までをご紹介しましたが、その後のシンガポールを見る前に、現在のシンガポールの礎を作った、故リー・クアンユー元首相についてフォーカスしたいと思います。

話を第二次世界大戦後に戻します。

 

第二次世界大戦後のシンガポールとリー・クアンユー氏

第二次世界大戦後、アジアでの独立運動の流れができ、イギリスとしてもマレーシア(当時マラヤ連邦)やシンガポールの独立は不可避と考えました。そこで、選挙による議員の一部の選出と、自治政府の成立を認めることにしました。

そこで出てきたのが、英語教育集団と華語教育集団(共産系グループ)です。

英語教育集団は多人種からなる英語教育を受けたグループです。華語教育集団は中国から移民を中心に形成されたグループです。この二つのグループをまとめたのが故リー・クアンユー元首相(以降:リー元首相)です。双方のグループは相反する思想を持っていましたが、選挙に勝つために手を組んだのです。その仲立ちをしたのがリー元首相でした。

リー元首相は小学校から英語教育学校に学び、イギリスに留学し法律を学び、シンガポール帰国後法律事務所を開きました。リー元首相はイギリス留学時代から政治家になり、シンガポール独立とマレーシアへの加盟の決意を固めていました。

 

マレーシアとの統合交渉

1954年に人民行動党を結成し。そして1959年についに選挙で勝利して政権を握りました。リー元首相は35歳の若さで首相に就任しました。

リー元首相は、シンガポールの工業化と、製品を販売するための国内市場として、マレーシアとの合併を目指していました。

しかし、マレーシアとの合併に反対する共産系グループが人民行動党から離脱して、その後リー元首相を苦しめることになります。(リー元首相が工業化を進めたかった背景としては、戦後東南アジア諸国が独立すると、工業製品の輸入をやめて自国で生産する流れができ、それまでシンガポールが軸としていた中継貿易が打撃を受けることが予想されていたからです)

 

また、自分達がマレーシアの土着民族であると考えるマレー人にとって、華人主導の国家を作ることは容認できるものではなく、最終的にはイギリスが植民地としていた、サラワク、サバも含めて、マレー人46%、華人42%、インド人8%で1963年にマレーシア連邦が結成されました。

 

マレーシアからの追放

マレーシア連邦が結成されましたが、実はシンガポールとマレーシアはこの時点で経済格差があり、シンガポールの方がマレーシアより発展していました(約二倍の国民所得)。マレーシア中央政府は、マレー人が住む農村地域の開発を優先させ、シンガポール側の工業化案を無視しました。これを機にマレーシア中央政府とシンガポール人民行動党の溝が深まっていきます。

そして、ついてこの軋轢は民族対立に発展してしまい、1964年7月と9月それぞれに、華人とマレー人の衝突が発生して、死者が出てしまいました。

 

これらの原因はすべてリー元首相にあるとされ、ついにシンガポールはマレーシアから追放されることになりました。

シンガポールの独立は、リー元首相にとっては最悪のシナリオでした。シンガポールには自活能力がなかったからです。それが、分離独立を発表するテレビ記者会見の席の途中に流した涙に表われています。この会見でリー元首相は次のように語りました。

 

「私には、これは苦悶の瞬間である。これまでの私の人生、とりわけ政治家になって以降、私はマレーシアとシンガポールの合併と統一を固く確信し、そのために行動してきた。両国は、地理的にも経済的にも社会的にも一つになるのが自然だからである。それなのに、私があれほど信じてきたものが、いますべて崩れ去ってしまったのだ……。」

 

1965年に独立した際の新聞

マレーシアからの追放

 

以上が、故リー・クアンユー元首相が歩んできた独立までの流れです。

お隣の国ですが、シンガポールとマレーシアはいまでも非常に繊細な関係であることは間違いありません。

 

開発主義国家

分離独立したあとのシンガポールは、一体どのように現在のような国に成長したのでしょうか?

独立までの経済

イギリス植民地時代には、そのアクセスの良さから、シンガポールは中継貿易で大きく発展を遂げていました。欧米から輸入した工業製品の東南アジアの国々への輸出や、東南アジアやインド、中国からの農産物の輸出などです。

また、マレーシアで生産されたすず(世界最大規模の埋蔵量)やゴム(気候が栽培に適していた)の加工は一部シンガポールで行われ、輸出の多くはシンガポール経由で行われました。

これら貿易業やゴム産業で成功した有力企業家が銀行業を興し、金融業も発展しました。

 

人口増加

こうして経済が発展すると人口が増えました。
・1824年 約1万人
・1901年 約23万人
その構成比率は次の通りです。
・1824年 マレー人60.2%、華人31.0%、インド人7.1%
・1901年 華人72.1%、マレー人16.0%、インド人8.0%(ほぼ現在と似た民族比率)

 

政府が公表している人種毎の人口比率

人口増加

 

特徴としては、移民者たちの多くは出稼ぎで、いつか祖国に帰る前提だったこと、また、民族、言語、宗教によって分断されており、多くの小社会の寄せ集めであり、シンボルや仲間意識が不在であり、独立後政府は国民を一つにまとめることに多くのエネルギーを注ぐことになります。

 

分離独立後の国家目標

さて、1965年8月9日に、マレーシアから分離独立したシンガポールですが、イギリス植民地時代から発展してきた中継貿易は、各東南アジア諸国独立にともない、各国が輸入代替型工業化戦略(それまで輸入していたものを自国で生産するということ)を採用したこともあり、大打撃が不可避でした。

 

中継貿易に替わるシンガポールの経済戦略としては、世界市場に工業製品を輸出する輸出志向型でした。しかも、近隣諸国との競合を避けるために、造船業や石油精製業などの重化学工業でした。

 

ただ、そもそも重化学工業をを担える国内企業がなかったので、外国企業を誘致する戦略が採用されました。

 

さて、皆さんが外国企業の立場からすれば、どのような国に投資したいでしょうか?

  • 政治が安定している
  • ビジネス環境が整備されている
  • 人件費や税金が安い
  • 物流拠点としてアクセスがいい

などの要素ではないでしょうか?

分離独立後、シンガポールでは経済発展が最高かつ唯一の国家目標に設定されて、全てがそのための手段と考えられました、これが「開発主義国家」と呼ばれるものです。

 

シンガポールはこの開発主義国家のシステム構築が極限まで追求された国で、このシステムを創り上げたのが、故リー・クアンユー元首相でした。

 

マレーシアから分離独立したシンガポールは、この戦略に沿って強烈に全ての政策を進めていくことになります。

 

独立後の主な政策

ここまで、資源も国内市場も持たないシンガポールがマレーシアから分離独立後、重化学工業の輸出志向型を目指すことになったとお伝えしました。また、重化学工業のノウハウのないシンガポールは、外国企業を積極的に誘致することを方針として決定しました。

そのためには、

  • 安定した政治
  • ビジネス環境の整備 
  • 外国企業が参入しやすいベネフィット 

が重要となってきます。では、シンガポールはどのようにこれらを実現したのでしょうか? ざっと政策を見ていきたいと思います。

 

徹底した反対勢力の排除とマスコミの管理

まず、これには賛否があるかもしれませんが、政治の安定のために徹底的に反対勢力を排除しました。また、マスメディアについては、そもそも途上国のマスメディアは、政府の方針や政策を国民に伝えることが任務である、という考え方でした。

 

結果、以下のような対応を強烈に進めました。

  • 労働組合の管理(労働仲裁裁判所を創設してストライキを管理)
  • 大学から共産主義者を排除して、学生の非政治化の達成
  • マスメディアの取り締まり(共産主義系新聞の排除、その他政府に批判的な新聞への圧力、全ての新聞社をシンガポール・プレス・ホールディングス配下に統合、外国メディアの規制など)

 

国防の整備

国の安定のためには安全保障も重要な要素となります。マレーシアからの分離独立後、1966年には安全保障を支えてきた、駐イギリス軍が1972年までには撤退することを発表しました。そのために、以下の政策を導入しました。

 

  • 国防省の創設と国防費の増加(1962年12%から1969年28%に)
  • 「五ヵ国防衛協定」締結(シンガポール、マレーシア、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド)
  • 徴兵制「ナショナル・サービス」の導入(18歳以上の男子国民が約2年服務、その後も毎年一定年齢まで参加義務あり)
  • マレーシアとインドネシアとの共存関係構築(近隣の両国については、マレーシアからは水、インドネシアからは埋め立て用の砂を購入するなど、両国は不可欠な存在であるが、同時に「仮想敵国」でもあった)
  • アメリカとの国防上の関係強化

 

政府機関の再編

外国企業誘致のため、経済開発庁(EDB)を再編し、投資誘致の任務に特化する機関としました。

 

例えば、日本留学経験者を日本企業誘致担当にするなど積極的な勧誘が行われました。(この経済開発庁にはかなりのエリートが選ばれます。これと関連した、エリートを育てるための特異な教育制度はまた別の機会で)

EDBはワンストップ政府機関として、進出する外国企業は、数多くの政府機関と交渉することなく、同庁が一元的な窓口を担うことでスムーズな調整ができました。

 

また、ジュロン開発公社(JTC)を設立し、外国企業向け工業団地の建設と整備を実施しました。
シンガポールは多くの産業分野で100%出資の外国企業の設立を認めたのも、世界的企業の進出が進んだ要因でもありました。

<EDB(経済開発庁)のサイト>
EDB のWebサイト

 

外国企業へのベネフィット設定

外国企業への魅力あるベネフィットも整備しました。

  • 1967年に外国投資を奨励する様々なインセンティブを盛り込んだ「経済拡大奨励法」を制定
  • 1968年には、外国企業に有利な内容の「雇用法」と「労働関係修正法」を制定して労働組合活動を抑制
  • 1972年には、労働者の賃金を実質的に政府が決める権限をもった全国賃金評価(NWC)を設立し、低賃金労働力を目当てとする外国企業に対応

 

こうした様々な政策をスピーディに実践した結果、1965年~1973年の平均成長率は12.5%を達成、70年代後半になるとシンガポールは新興工業経済群(NIES)の仲間入りを果たしました。

こうして貿易中心から製造業中心へと構造転換を成功させ、1960年に全体の11.4%だった製造業は、1990年には29.6%に増えました。

その他、シンガポールの経済発展を語る上で外せないのは、以下のようなポイントです。

 

金融センターとしての発展

イギリス植民地時代から貿易の発展により銀行業や保険業が発展しました。

1970年代になると、欧米や日本の金融機関が貸付先としてアジアに目を向けたことにより多く支店がシンガポールに開設されました。また、取引先を外国に限定するオフショア銀行の取引額も大幅に増えました。

こうした成功要因は、効率的な行政、整備されたビジネス環境、イギリスの法制度が標準であること、多くの国民が英語を話せることなどにありました。

 

巨大政府企業

シンガポールには多くの政府系企業があり、シンガポールの経済開発を担ってきました。政府系企業グループは実はシンガポール最大の企業グループです。

また、シンガポールの政府系企業の収益性は極めて高く、シンガポール航空、通信のシングテル、不動産のキャピタランドなど、これら大手企業の持ち株会社が、政府が100%所有するテマセク・ホールディングス社であり、政府系企業の経営責任者には中央省庁の事務次官などが兼任で任命されています。
これらの企業は政府系企業でありながらも、民間企業同様に、利潤獲得を原理に経営を行われていることが大きな特徴です。

 

以上、ざっと分離独立以来の政策を整理しました。

書けばあっという間ですが、たった10年程度で、これだけのことを実行した故リー・クアンユー元首相の強烈なリーダーシップは計り知れないものがあります。明確な目標と理想があってこそだと思います。

 

また、シンガポール成功の要因は、政府主導であった以外に、超エリートの政府官僚がまるで商社マンのように世界中の企業を誘致して、自ら率先して行動したこと。そして、利益獲得が最大の行動原理として設定されたことだと思います。もちろんこれらのシステムを創り上げたのは、故リー・クアンユー元首相です。

こういった歴史もあり、現在のコロナ禍であっても、国民は政府の出す政策を疑いなく信じている印象を受けます。これは現在の日本の政策混乱と比較すると対照的かもしれません。

 

その後のシンガポール

ここまでシンガポールが分離独立後、どのような政策を実行し、経済発展を遂げたかをご紹介しました。

しかし、その後のシンガポールが何もかも順風満帆であったわけではありません。

 

首相交代(ゴー・チョクトン元首相 1990~2004年)

故リー・クアンユー元首相(以下:リー元首相)は、1990年に首相の座をゴー・チョクトン氏(以下:ゴー元首相)に引き継ぎました。余裕をもって次の世代に国家運営を任せることが目的でした。しかしながら、自身は「上級相」に就任し、依然強い影響力を発揮していました。

ゴー元首相はこの頃、多くの国で権威主義体制から民主的体制に移行していることを踏まえ、その潮流を読み取り、ソフトな自由主義統制スタイルを掲げました。

その結果、1991年の総選挙では、野党が1議席から4議席に増えてしまいました。(といっても、人民行動党が77議席で、体制的には何も影響はなかった)

 

リー元首相はゴー元首相のこの政治手法に異論を唱え、国を統治するためには国民に迎合することなく、厳格さが必要であると説きました。その結果、ゴー元首相は権威主義路線に回帰することになります。(その後、野党に抑圧を加えるなど、リー元首相の政治スタイルを踏襲することになります)

そして次の1997年の選挙では、野党は4議席から2議席に減り、その後の2001年の選挙でも圧勝しました。

この選挙結果は、国民が人民行動党の経済政策を評価したと同時に、権威主義体制に何を言っても無駄である(逆に抑圧される)という諦めの気持ちが多かったようです。

1990年代は、各国が野党の台頭や政権交代が起こるなか、シンガポールは1970年代に逆戻りしたとも言われています。

 

首相交代(リー・シェンロン首相 2004年~)

2004年8月に、リー元首相の長男である、リー・シェンロン氏(以下:リー首相)が首相に就任しました。この交替も、世代交代をスムーズに進めるため、周到に準備されたものでした。

リー首相は、英語、華語、マレー語に堪能であり、高校卒業後、イギリスのケンブリッジ大学で数学を専攻し、1979年にはアメリカのハーバード大学で行政学を専攻するというまさにエリートでした。

国民の間では「リー王朝」という批判を招きました。リー元首相は顧問相に、弟のシェンヤンは国営通信会社のシングテルの会長に、夫人ホー・チンが政府系持株会社、テマセク・ホールディングスの経営責任者に就任し、リー一族が政治と経済の要職を独占したからです。

 

国民の不満

経済発展を続けるシンガポールでしたが、以下のような社会的問題が徐々に顕在化して、国民の不満は高まってきました。

  • 言論統制問題
    経済発展により、中間層が増え、国民の職業がホワイト・カラー層中心になってきました。中間層は、人民行動党に対して、「政治の統治能力がある」という評価の一方、「言論の自由がない」「マスメディアが中立ではない」という不満が増えていきました。
  • 少子高齢化問題
    経済が発展し医療が充実すると、少子高齢化が進むのは先進国の共通現象ですが、シンガポールでも1970年の出生率は3.10だったものが、1980年は1.74に低下して労働力不足に陥りました。政府が対策を打ち出すも(多産奨励政策)、2007年には1.29と世界最低レベルとなりました。

 

2019年現在の出生率は1.14 外国人に依存しないわけにはいかないですね

国民の不満

 

  • 外国人問題
    少子高齢化により、労働人口への危機感から、政府は外国人移民推奨政策を掲げることになります。2008年には、総人口に対して約27%が外国人となりました。その結果、労働力問題は緩和されましたが、シンガポール人の中間層が専門技能職や事務職から締め出されるケースが出てきました。また、外国人の不動産投資により、マンション価格が高騰し、国民の不満が高まりました。

 

2011年の総選挙(政治の分岐点)

これらの不満は2011年の選挙結果に表れ、野党は過去最高の6議席を獲得しました。これにより人民行動党は政治改革を迫られることになります。

また、この選挙後、リー元首相が顧問相を辞任すると発表し、その他政府機関の役職からも全て辞任しました。まさに一つの時代の終焉でした。

その後、リー内閣は、国民目線の政治へと舵を切り始めました。外国人移民政策の見直し(事務職の外国人労働者に対するビザ発給条件の見直し)や高級官僚や閣僚の給与見直しがその例です。

 

 

まとめ

シンガポールは、故リー・クアンユー元首相の個人的価値観が、そのまま国家制度や政策に反映された国です。リー元首相は政治安定と経済発展のためには手段は選びませんでした。自身の政策に、自信と確信に満ち溢れていたと思います。

自分自身も、シンガポールが経済発展したことで、この国で仕事をする機会をいただきましたので、感謝の言葉しかありません。

私がシンガポールに住み始めた翌年の2015年3月23日に、リー元首相が亡くなりました。本当に多くの国民が弔問に訪れました。マレーシアから分離独立した小さな資源もない国を、ここまで発展させた功績は国民はよく理解していました。

 

リー元首相は生前、ご自身が亡くなったら、自宅を取り壊して用地開発せよと言っていたそうです。そこまで徹底してシンガポールの発展を望んでおられました。

今後のシンガポールは、上述の課題や、またこれまで取り込んでこなかった、芸術や文学などの文化、また、スポーツの発展にも取り組んでいこうとしています。

特に少子高齢化は日本も同じ課題を抱えていますので、今後、シンガポールの政策が参考になる部分も多いと思いますので、注目していきたいと思います。

 

特に外国人に対するマネージメントは本当に参考になることが多いです。例えばシンガポールは、仏教、イスラム教、キリスト教、ヒンズー教の宗教記念日は祝日となっており、多人種国家ならではの気遣いが感じられます。今後日本も少子化で人口が減少した際に、いかに他国の人とうまく協調していけるかは、重要なポイントではないかと思います。

 

おすすめ本

ラッフルズ上陸から現在に至るまで、シンガポールの近現代史の詳細を記した以下の書籍は大変おすすめです。シンガポールがこの激動の時代をどう生きてきたか、その背景まで克明に描かれいます。

 

おすすめ本

建国の父、故リー・クアンユー元首相が、シンガポールや世界、日本について問答形式で提言しています。シンガポールを創り上げた人の言葉は、重みがすごいです。

 

この記事のまとめ

シンガポールは、故リー・クアンユー元首相の個人的価値観が、そのまま国家制度や政策に反映された国

少子高齢化という日本と同じ課題を抱えており、今後の対応が注目される

言語や外国人のマネージメントはすばらしく、日本が学ぶべき政策は沢山ある

 

ここまでお読みくださりありがとうございました。

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