はじめまして! こんにちは! 【ビジネス福袋】のトニーとケイトです。現在、シンガポールに住み、IT企業に勤めています。
新型コロナ(COVID-19)の世界的な流行を発端に、生き方の見直しが必要となった方々も多いのではないでしょうか。私たちもそのうちの一人です。
そんな中、「私たちの経験や情報が役に立つこともあるのではないか!」と思い立ち、サラリーマン応援ブログを立ち上げることにしました。
これからたくさん記事をアップしてゆきたいと思いますが、その前にまず、私たちがどんな人間か、お伝えできればと思います。少しでも興味を持っていただければ幸いです!
トニーって、どんな人?
小中時代
中華系の学校に通う
いろいろと事情があって、なんと兄弟とは違い、自分は親の希望で中華系の学校に通うことになりました。父親が中国語を習わせたかったようです。
家から小1時間かけて、小学1年生から電車に乗って通っていました。この学校は強烈で、すべての授業は中国語で行われました。ここで習った中国語は、その後何十年か経った後、結果として大変役に立つことになりました。
家出する
小学生の頃に両親が大人の事情で離婚して、母親に育てられました。
ただ、母親は食堂を営んでいたこともあり忙しく、自分も小1時間かけて学校に通っていたため、知り合いのおじさんとおばさんの家にしばらく住み込んで、そこから学校に通うこととなりました。
母親は忙しくて普段からイライラしていたこともあり、おじさんとおばさんに自分はえらく懐いてしまって、その後中学卒業まで家に帰らずに生活していました。おじさんとおばさんは子供がおらず、自分を本当に子どものようにかわいがってくれました。
高校時代
実家に戻る
高校に入るにあたり、普通の日本の公立高校を受験することになったので、実家に戻ることになりました。
でも、小学校・中学校と家から離れて生活していたこともあり、どうしても母親とギクシャクしてしまった高校生活を過ごしていて、大学に入ったら家を出ようと、自分の中では強く思っていました。
大学時代
親が亡くなる
そんな母親との関係性の中、母親が入院することになりました。自分が高3の時です。親戚が入れ替わり立ち替わり家に来て、家事を手伝ってくれました。
結果的に母親は肺がんで、まさに自分が大学合格した直後に亡くなってしまいました。もともと家を出たいと思っていましたが、母親の病気のこともあり、地元の大学を受験して入学することになりました。
家出から始まって、母親との確執、母親の死から大学合格まで、何かとバタバタして生活してきたので、大学ではホッとしてしまい、大分ダレてしまいました。
とはいえ、スポーツをしたいと思い、小学校の時にやっていたバスケットボール部に入部しました。強豪ではなかったとはいえ、大学の体育会系の部活なので、生活の中心は部活中心になりました。あとは先輩とやるマージャンでほとんど大学生活は過ぎていきました。
社会人になって
メーカーで営業とマーケティング
大学では本当にある意味エンジョイしてしまって、まともに勉強はしておらず、将来自分が何の仕事をしたいとかほとんど考えてませんでした。
高校で物理の先生が嫌いで、それだけで文系を選んでしまい、文系の学部に入学したので、その流れで営業とかマーケティングとかの仕事に漠然と就職するのかな~、と考えていました。また、両親不在で、家もあったので、家から通える会社を選ぶことにしました。兄弟も結婚して一人で住んでいたからです。
ちょうどバブルがはじけて就職活動も難しくなっていたので、いっぱい不合格になりましたが、拾ってくれた中堅電気メーカーがあり、そこで営業として働くことになりました。
家庭向け電気製品のメーカーで代理店の担当をしていたのですが、仕事の多くは小売店の販売応援をしていました。結構キツかったですが、ここでは多くのこと(メーカーとしてのポジション、営業、小売業での販売、マーケティングなど)を学びました。
パチンコ会社で経理
社会人として3年弱くらい働いた矢先、親戚からお誘いがありました。親戚はパチンコ店を経営しており、経理の仕事を手伝って欲しいと言われました。人手が足りなくなったのですが、現金を扱うため、外部の人に頼めないということでした。
母親の病気の際に大変お世話になったこともあり、お手伝いすることに決めて、電気メーカーを退職しました。
当時のパチンコ業界はまだまだ進化しておらず、少し怪しいおじさんとおばさんも沢山働いていました。
自分は経理をしていましたが、なんと給料は全員現金支給でした。給料日前になると自分が部屋にこもって、大金を計算してすべての封筒に封入して配るという、今ではあまり考えにくい仕事をしていました。店にお金を持っていく際はかなり緊張しました。従業員が外部の人と組んで襲わせる可能性もあるからです。
外資系IT企業に転職
2年ほど働きましたが、体制が少し落ち着いてきたので、もう一度外で働きたいという気持ちが出てきました。あまりにも世界が狭すぎて、このまま働き続けるモチベーションが保てなかったからです。そこで親戚にお願いして退職することにしました。
「さぁ、そこから何しよう?」と考えましたが、何となくこれからITが良いじゃないかと適当な考えのもと、IT企業を人材会社で探しました。今となればITといってもいろんな種類があるとわかるのですが、当時はIT系で、未経験で採用してくれるところなら何でも良かったのです。
就職活動する中で、外資系の通信会社が営業を募集していました。地方勤務なので特に英語力も不問でした。これはいいと思い面接を受けて、何にも経験もなかったのですが、何とか採用してもらいました。当時まだインターネットも黎明期で、ISP回線、ホスティング、国際電話などの営業をしていました。
何の知識もないので自分でもそれなりに勉強しました。英語は不要とはいえ、一応外資系なので少しだけ英会話に通い始めました。
IT企業で法人営業
実は提供しているサービスに品質上いろいろと課題もあり、仕事が順調というわけではなかったのですが、一応『IT業界』で働いていることに喜びも感じていました。新しいことがどんどん出てくるので飽きませんでした。
そんな中、会社の社長が日本人からイギリス人に変わりました。そして、なんといきなりリストラをし始めました。社員一同集められ、対象の人にはオファーの封筒が渡されました。「3か月分の給料を払うから、すぐにサインして退職同意しなさい」というものでした。
その時懇意にしてくれていた上司とともに、速攻でサインして辞めました。会社都合なので雇用保険もすぐに出ました。実はあとで知ったことですが、外資系のIT企業はこういったことも当たり前にあり、退職リッチになる人もいるとのことです。
この頃には、ある程度IT知識もついていたので、転職自体は比較的すぐに見つかりました。どこも人材不足だったからです。就職したのは業界でも品質が高いといわれている通信会社でした(現職)。
法人営業として働き始めましたが、付き合う顧客は有名企業ばかりで非常にイイ経験となりました。エンジニアも非常にレベルが高く、自分も成長するインターネット関連の知識を一生懸命勉強しました。
シンガポールに急に異動
若い頃はいろいろと事情もあり転職もしましたが、今の会社は相性が良かったのか長く勤めることになり、営業として部下のマネージメントもしていました。
が、またまた人生の不思議があり、上司からシンガポール行きをオファーされました。東南アジアのビジネスを拡大するので、誰か営業マネージャー職を探しているとのことでした。日本のソリューションの売り方を現地のメンバーに指導したり、現地で顧客を支援する役割でした。
ただ、自分は何も海外赴任の希望は出したことがなく、英会話は少し通っていましたが、英語で仕事は一度もしたことはありませんでした。また、妻と共働きのため、妻の仕事もどうするかの判断が必要でした。
最終的には、子供もおらず、何とかなるだろうということで、新しいチャレンジをしたくて、シンガポール行きを決めました。
シンガポールの仕事
シンガポールでは、予想通り大分苦労しました。
まず英語が本当に聞き取れず、話せずでした。そんな中、子供の頃に習った中国語が役に立ちました。
シンガポールは国民の約75%が中華系であり、カジュアルな会話ならビジネスシーンでも中国語も使えました。当初は中国語と英語をミックスさせながら何とか仕事をしていました。ただ、もちろん仕事は中華系だけではなく、インド系、マレー系、フィリピン人、日本人など多様な人たちと絡むため、スムーズな英語が必要で格闘しました。今もそれは続いています。このあたりは別途記事でご紹介します。
そんなこんなですが、仕事はそれなりに成長しまして、今でシンガポールは7年目となりました。新型コロナもあり家にいることが多いこともあり、これまでの経験をブログでご紹介しようと考えました。
自分では平凡な人生と思っていましたが、書き出してみるとそれなりにいろいろとありました。少しでも経験がみなさんの参考になれば、これ以上嬉しいことはありません。
ケイトって、どんな人?
小中高時代
空気を読み過ぎる性格に育つ
実家は自営業で、同居している祖母が長らく寝たきりだったことから、母も介護でずっと家にいる家庭環境で育ちました。
両親は大切に育ててくれましたが、家族そろっての外出等は現実的に難しく、子供ごころに我が儘を言ってはいけないと思っていたため、無意識的に、空気を読んで相手に合わせる癖がつきました。その癖が時間をかけて、身に染みついた時期だったと思います。
その性格もあってか、まわりからは穏やかなタイプだと言われましたが、小中学時代は一時期、いじめに合うこともありました。(ハッキリと意見を言わないところが、まわりをイライラさせる部分もあったのではないかと思います)
大学時代
まわりの窮屈さから解放される
大学入学後、剣道サークルや茶道部に入ったり、専門研究にハマった結果、生活リズムに変化が生まれ、家族と良い意味で距離感が生まれました。その結果、少し意見が言えるようになり、言えるようになってから、それまで自分が窮屈さを感じていたことにも気づきました。
気持ちの解放とともに、まわりに合わせようとする気持ちが薄まり、同級生とつるむことが比較的少ない、気楽な4年間を過ごしたように思います。(親しい友達とは旅行へ行ったり、一緒に研究したり、密な時間を過ごしました)
社会人になって
IT企業に営業アシスタントとして入社
大学院へ進学するかどうか迷っているうちに就職活動に出遅れ、叔父が紹介してくれたIT企業に就職しました。
入社時はIT知識が皆無で、研修でも落ちこぼれで凹みましたが、何でも経験させてもらえる社風から、希望すれば何でもトライさせてもらえました。時には厳しい指導(洗礼)を受けつつ、営業アシスタントの枠を超えた仕事をさせてもらうことができ、人事やマーケティングなどにも関わりながら、アシスタント・チームのリーダーになりました。
カウンセリングを学ぶ
そんな中、メンタル不調の後輩が出て、カウンセリングに興味を持ち、学び始めました。
そのうち、兄弟もメンタル不調となり、学びを深めたいという気持ちが強まったことから、『産業カウンセラー』をはじめとした資格取得や実践研修に努めました。
勤務先にもその情報を還元したいと思い(『IT業界』はメンタル不調の多い業界の一つと言われています)、社内報でメンタルヘルスに関する連載を持ち、広報活動も行いました。
シンガポールに急に異動
ずっと同じ会社で働き続け、任されることも多くなっていた為、大変充実した生活を送っていましたが、夫のシンガポール異動が決まり、一緒にシンガポールへ行くことに決めました。
夫婦で別居する選択肢が私の中になかったことと、ずっと海外で生活してみたいという夢を持っていたので、シンガポール行きはウェルカムでした。ただ、上手くいっていた仕事を辞め、また、両親やメンタル不調の兄弟を日本に置いてゆくことには少なからず不安や罪悪感を感じました。それでも、せっかくのチャンスをつかみたいと思い、思いきりました。
渡航前日まで勤務し、笑顔で送り出してくれた家族や同僚たちに感謝しながら、夫の渡航から約1か月後にシンガポールへ引っ越しました。
シンガポールの仕事
シンガポールで入社した会社では、語学面の苦労はもちろんのこと、任された仕事が未経験の経理業務であった為、大変苦労しました。
簿記3級は持っていましたが、いきなり実践を任されることとなり、最初はハテナが飛びまくる毎日を過ごしました。また落ちこぼれ状態に逆戻りで凹みましたが、まわりに助けてもらいながら、実務優先で何とか乗りきってきました。まだまだ日々勉強は続いていますが、初心者が必要な知識の優先順位等はわかるようになりましたので、このあたりは今後、記事としてまとめてゆきたいと思います。
また、入社1年ほどでコンサルティング・エンジニアの先輩が退職し、業務基幹システムのサポートも任されることとなりました。てんやわんやになりながら、こちらも実務優先で、経験値を積むスタイルで乗りきっている毎日です。
そんな中、勤務先や家族に新たな問題が生じ、その都度、向き合い、まわりにも支えてもらいながら、それらの問題を経験に変えてきました。その日々の中で学んできたことを、少しでもみなさんのお役に立てるように共有できたら嬉しいです。